ANSEWN アンソーン

1990年、前にも書いたがシカゴのタンナー、HORWEENに行った時、社長のアーノルドさんに訊ねた「今アメリカで良い靴を造れるメーカーは何処と何処ですか?」と。  アーノルドさんはこう答えた。  「グッドイヤーウエルト製法の靴ならALDEN とALLEN EDMONS、ハンドソーイングモカシンだったらANSEWNだ」。  ANSEWN?聞いたことがないぞ。  アーノルドさんはポカンと口を開けている私にさらにANSEWNの説明をしてくれた。  「 ANSEWNはモカシンの本場、メイン州バンゴーにあり、POLO RALPH LAUREN のローファーやCOLE HAANのモカシンを造っているが、今度自社ブランドのANSEWNを発売する。  モカシンには先にモカの穴をあらかじめあけておき、その穴に糸をとうし、モカ縫ってから、木型を入れるプリパンチ製法と、木型にアッパーを釘で仮止めして、ひと穴づつ穴をあけながらモカを縫うジュニインハンドソーンモカシンの二種類がある。そのジュニインハンドソーンで縫ったモカシンはモカが美しいが、ベテランのハンドソナー(モカ職人)が必要で、ベテランの職人でも一日縫えるのは7足から8足だ。」  「へーPOLOのローファーを造っているのかー」 私はPOLO大好きなので嬉しくなった。 今でも着るものはPOLOがほとんどだ。   それにその頃日本ではCOLE HAAN が人気が出始め、特にローファーが注目されていた。COLE HAANが世界的有名になったのは、あのモカが美しいローファーだと言っても過言ではない。 つまりCOLE HAANを有名にしたのはANSEWNなのだ。  「行こう!バンゴーに行こう!」          メイン州の北、バンゴーの空港からレンターカーを飛ばして15分足らずでANSEWNの工場はあった。   社長のアーウィン ラクリッツさんとデザイン担当のリック コーヘンさんが出迎えてくれた。      ショールームには、モカシンのローファーがズラッと並んでいた。  ソフトなガラス(コレクテッドレザー)のライニングがないシリーズとカーフ革でライニング付きのシリーズでそれぞれデザインが数種類あった。   売るあては何処にもなかったが、どうしてもこの靴を日本に紹介したかったので、その場で100足か200足か忘れたけれど発注した。    アーウィンさんは、「そんなにこの靴が気にいってくれたのなら、日本でのエクスクロッシヴ(独占販売権)をあげるから、一緒に頑張ろう」と言ってくれた。   ANSEWNが日本に到着してしばらくして神宮前のトレーディングポスト一号店オープンの話があり、1991年9月に開店してANSEWNは主力商品になった。   当時お客さんで小穴さんと言う人がANSEWNが好きで、何足か買っていただいた。  その小穴さんが取材したいと言ってきた。 小穴さんは雑誌BEGINの編集長だったのだ。   その後私はANSEWNを持って新宿の伊勢丹に行って、当時紳士靴のバイヤーだった宮下さんに会いに行った。  宮下さんはANSEWNを気に入ってくれて、販売をしていただいた。   その後、伊勢丹にはクロケット&ジョーンズやトリッカー、エドワードグリーンなど海外ブランドを取扱いをお願いした。  山長も伊勢丹でデビューしたのも最初の出会いはANSEWNだったのだ。

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BEGINに紹介されたANSEWNのローファー。

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その時のBEGINの表紙。米国ファクトリーブランド「アンソーン」と表紙にも見出しが出ている。   

AldenとMr.John Happ

トロントのポールダニエルさんにオルデンにアポイントメントを入れて貰ったところ、工場はやはりボストン郊外のミドルボロゥにあるのだが、営業担当者はニューヨークのショールームに居るので、ニューヨークへ行けと言う。    せっかく近くに居るので工場がどんな所にあるか行ってみる事にした。    松林の中にオルデンの工場はあった。   靴を作っているところを見たかったのだが、とりあえずニューヨークに行く事にした。    オルデンのニューヨークのショールームは、あの有名なエンパイアステートビルの7112号室にあった。   セールス担当のフロイドギルモアさんが出迎えてくれた。   ショールームを見せてもらうと、今まで見たことのないデザインの靴が並んでいた。   夢中になって見ていると、部屋の隅にカーテンに仕切られた陳列棚があった。   ずうずうしくカーテンを開けるとひどく変わった靴が並んでいる。  聞くと足に障害がある人や、足が特殊な形をしている人の為の靴だと言う。   その中でアルゴンクィンと言われるUモカの靴があった。  今ではVチップと言われている靴だ。   この靴はもともとハイアーチといわれる踏まずの高い人の為の靴だそうだ。   サンプルを10足程頼み、当然くだんのアルゴンクィンも注文した。   サンプルは後日、日本に届いたのだが、当時我々に力がなく、オーダーにまでは至らなかった。   何年か後、トレーディングポストの店を開いた時、オルデンにしようか、アレンエドモンズにしようか迷ったが、アレンエドモンズを展開する店が少なかったので、アレンエドモンズを選んだ。   その時のアレンエドモンズの担当者がジョンハップさんだ。   ジョンハップさんはアレンエドモンズを辞め、ローファーで有名なGHバスに行く。   ある日、ジョンさんが我々にバスの日本のエージェントにならないかと言って来た。   当時、我々がやっていたライフギアコーポレーションは以前からバスに興味があったので、すぐ話はまとまった。   何度かメイン州ポートランドのGHバスに行ったりした。   しかしメイン州ウォルトンにあった、バスの工場はなくなり、海外生産のチープな靴だらけになったバスは魅力に欠ける。   ヴァンヒューゼンというシャツの会社に属したので、大量生産、大量販売にシフトしたのだろう。    ジョンさんがバスを辞めたと聞いたのは、その後すぐだった。     暫くしてジョンさんがカウボーイブーツを持って日本に来た。  アリアートというブーツの会社に入ったと言う。   日本で乗馬ブーツが売れないだろうかと相談してきた。    いろいろ一緒にリサーチしたが日本では乗馬市場が小さいという事が分かり、アリアートのベースボールキャップを私にくれて帰って行った。     それから何年たっただろうか、私もライフギアを辞め、三陽山長の渡辺さんとデュッセルドルフのGDSという靴の展示会に行った時だ。    オルデンのブースを覗いているとジョンさんが居た。   思わず近付いて「ジョン、どうしたの?」と声をかけた。   彼も驚いて「ナガシマさん」と言ってお互いガッチリ握手をした。    2年前にオルデンに入ったと言う。  社長のアーサータルローさんを紹介してくれた。    ジョンさんは、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語が出来、ヨーロッパを担当している。    日本でもそうだが、世界でも靴屋に一度足を踏み入れると、なかなか抜け出れないと言う。  牛のたたりだと言う人も居る。 

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ALDENのコードヴァンのタッセル。

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当時見たとき、変わった靴だと思った。

Bates

ベーツは、アメリカの軍隊の靴や、ポリスマンの靴、その他ユニフォームシューズを造るメーカーで、やはりボストンの郊外ウェブスターにある。それぞれの靴に、それぞれの行動に即した機能が搭載された機能美が私は好きだ。   ベーツの工場を訪ねた時、ゼネラルマネージャーのマーティン ネスルサンさんが珍しい靴、ブーツを見せてくれた。  レースアップのパラシュートブーツ、パテントレザー(エナメル)のプレーントウのユニフォームシューズなど興味深い靴がいっぱいで、宝の山に迷い込んだ少年の様な気分だった。    パラシュートブーツなど数点のサンプルを発注してベーツの工場を後にした。   日本に帰って暫くするとベーツのサンプルが届いた。   早速いろいろな人に見せたところタケオキクチのスタッフが気に入ってお店に置いてくれることになった。まだタケオキクチがワールドに行く前の頃だ。    ベーツも当時は独立した会社だったが、私が訪ねた数年後、アメリカ靴業界の大手ウォルヴァリングループの傘下に入った。   同じようにウォルヴァリングループの傘下に入った工場にトゥルーステッチがある。  今は主にスリッパを造っているのだが、かってはラルフローレンのモカシンシューズを造っていた。    ニューヨーク州のマローンと言う田舎町にあるのだが、何度も行った事がある。   トゥルーステッチの事は、またの機会に書きたいと思う。   ベーツは今でもポリスマンシューズやユニフォームシューズを造り続けているが、いまどきのハイテックな機能の靴が主流になっている。   時代の流れだからしようがないのだろうが、私が訪ねたあの時代の古い機能の靴やブーツを見ることはもう出来ないが、逆に言うとその時代の靴やブーツを見れた事は、幸せだったのかも知れない。

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アメリカン アーミーブーツ。  頑丈な作りだ。

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ユニフォームシューズ。 機能美が感じられるアメリカの靴だ。

Walk-Over GEO.E.KEITH COMPANY

ウォークオーヴァーと言えば、ホワイトバックスやダーティーバックスが有名だ。  IVY少年だった私は今でも春になると、白のチノパンツにホワイトバックスを履く。  レンガ色のスポンジラバーがお約束だ。    マサチューセッツのブリッジウォーターにあったウォークオーヴァーを訪ねたのは、FLYEを訪ねた後だった。   我々を出迎えてくれたのは、副社長のロバート ドリスコールさんで、工場を案内していただき、工場の近くにある古い廃駅を改装した、廃番品や二級品を販売するファクトリィーアウトレットにも連れて行ってもらった。  何年か後、残念ながら会社はなくなってしまったが、ウォークオーヴァーのブランドは不滅で、何度も復活が噂されたりトライされたりしたが、2年前に正式に復活した。しかもMADE IN USAだ。  アメリカのトラディショナルスタイル愛好家にとって、レンガ色のソールが付いたホワイトバックスやダーティーバックス、ネイヴィーバックスはマストアイテムで、ウォークオーヴァーなきあとコールハーンや、アレンエドモンズ、などのラインに登場していた。ウォークオーヴァーを造っていた会社はGEO.E KEITH COMPANY でボストン郊外のブリッジウォーターという街にあった。   グッドイヤーウエルト製法の老舗工場で、トラディショナルなウイングチップやプレーントウなどが主流で、ダーティーバックスなどはラインの一部なのだ。いかにもアメリカの靴らしく無骨で、がっちりと造られていてカッコ良かった。   昔々、メイフラワー号に乗った清教徒がボストン郊外のプリマスに新天地を求めて上陸した。  その後、イギリスからぞくぞくとボストンに人が船でやって来て、ニューイングランドと名付けイギリスの生活を持ち込んだ。   靴屋も当然イギリス流の技術で靴を作っていたのだろう。  20世紀の初めチャールズグッドイヤーというおっさんが、今までの手で縫いつける底付けを、大量生産が可能な底付けミシンを開発した。グッドイヤーウエルト製法である。   アメリカ人の大きな体を支え、がんがん歩きまわるには、がっちりした丈夫なグッドイヤーウエルト製法は最適だったに違いない。   ボストン周辺には多くのグッドイヤーウエルト製法の工場が沢山出来た。   ところが接着材の進化で、剥がれにくいセメント製法の安価で、さらに大量生産できる靴が市場に出てきた。  しかも軽くて、しなやかだ。   セメント製法の靴があっ!と言う間に市場にあふれ、高価で重いグッドイヤーウエルト製法は廃れて行く。  さらに発展途上国の製靴技術が向上して、ますます安価な輸入靴が市場にあふれて来る。  やがてボストン周辺にあった、沢山のグッドイヤーウエルトの工場は姿を消した。   今ではアメリカでグッドイヤーウエルト製法の靴工場は、ワークブーツ、カウボーイブーツ工場以外のドレスシューズを造る工場は、ALDEN、ALEN EDMONDS、そして自社ブランドはないがヴァージニアにあるHANOVERしかない。  今イタリアや日本のトレンドは、昔のトラディショナルなファションに来ている。  またグッドイヤーウエルトのアメリカンスタイルの靴が人気だ。  それでウォークオーヴァーも復刻したのだろう。  私としてはうれしいかぎりだ。

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ウォークオーヴァーがあったブリッジウォターの街。

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ホワイトバックスはトラッドのマストアイテムだ。   

FRYE BOOTS

1986年5月28日ぎゅうぎゅう詰めのエコノミークラスの飛行機でシカゴに向かった。   シカゴでトロント行きに乗り換えるのだ。  ところがシカゴに着いてトロント行きの飛行機が、トラブルで大幅に遅れている。   何時になるか分からない。航空会社の人はモニターにゲートの番号が出るから、チェックしろとしか言わない。   時々モニターをチェックするのだが、一向に出てこない。そこにやはりトロント行くおじさんが居て、ずっとモニターを立ってチェックしている。  おじさんをチェックしておけばモニターを見なくても大丈夫だ。  椅子に座って本を読んで、時々おじさんをチェックする。   4,5時間たって、おじさんが私たちに「出たぞ」と合図してくれた。   ひどく遅れたが、トロントに無事到着出来た。   トロントの郊外のホテルに泊まり、翌日ユニオンヴィルにある、ポールダニエルの会社MR.Dに行った。ユニオンヴィルは、しゃれたカフェやアンティーク屋、アクセサリー屋があるストリートで、MR.Dはその一画にあるカントリィー調のビルの二階にあった。  ナチュラルな木材のカントリィー調のインテリアのオフィスは恰好良かったが、ショールームにあった靴は、あまり感心しなかった。  もっともGMS相手の靴なのでしょうがないのかも知れない。   ポールさんにフライ、ベーツ、ウォークオーバー、オルデンなどマサチューセッツにある靴のメーカーのアポイントメントを取ってもらい、翌日ボストンに向かう。   ボストンの空港でレンタカーを借り、フライの工場に行った。フライはフライブーツが70年代大ヒットし、ワシントンにあるスミソニアンミュージアムに展示されている程のアメリカを代表するブーツで有名だ。  木造の古いビルがボストン郊外のマルボロゥという町にあったフライの工場だった。   後に工場はなくなり、今はジムラーという会社がメキシコでフライのブーツを造っている。    我々を出迎えてくれたのは、若いお兄ちゃんで背の高い髭をはやしたハンサムだ。アランクラヴィッツという。後で分かったのだが、アランのお父さんは、スタンレークラヴィッツといい、アメリカの靴業界では有名な人で、あのティンバーランドが駄靴屋だったのを現在の繁栄の基をつくったそうだ。   スタンレーさんと初めて会ったのはクェバックというアメリカ、ヴィブラムの工場で、彼はクェバックのアドヴァイサーもやっていたのだ。   工場を見せてもらい、サンプルが陳列してあるショールームで製品の説明を受けた。   当時は我々には日本での販売ルートもないので、すぐに取引は出来ないのだがアランは感じよく対応してくれた。   何年か後FRYEのライセンスを取り、日本で販売する事になるのだが。   ライセンスを取得してから、私はマサチューセッツのアンドーヴァーにあるFRYEのオーナーのスタンレーさんを訪ねた事がある。  アンドーヴァーはいかにもニューイングランドらしい小さな街で、アメリカ最古のプレップスクールであるフィリップアカデミーがあり、アンドヴァーショップというトラディショナルな洋服屋がある。  スタンレー、アラン親子に街を案内してもらったのを憶えている。

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MR.Dのオフィスがあった、トロントのユニオンヴィル。

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マサチューセッツ、マルボロゥにあった、FRYEの工場。

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70年代、大ヒットしたFRYE BOOTS スミソニアン博物館に展示される位アメリカを代表するブーツだ。

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日本では、リングブーツと呼ばれたハーネスストラップブーツ。 FRYEがオリジナルだ。

  

宮本さんとアメリカへ。

1984年、新宿のワシントンホテルの隣にあった私の事務所に三菱商事の藤田さんが、同じフットウエアー事業部の宮本さんを連れて私に会いに来た。   以前にも書いたが、月星(今はムーンスター)と三菱商事が合弁でThom Mcan Japan を展開していて、私が店を出したり、商品開発のお手伝いをして三菱商事の藤田さんとは公私共に仲良くさせてもらっていた。   宮本さんは東大を出て、三菱商事に入り、当時資材部の中にあった靴の仕事を担当して、韓国の釜山に駐在してスニーカーをアメリカに輸出していた。  この話をするとアメリカのCITCの事に触れなければならない。   当時のアメリカは、シアーズローバック、JCペニーなどGSMと呼ばれる巨大なチェーンがハウスブランドのスニーカーを売っていた。それの生産をCITCのスニーカー王と云われたジョナス、センターが一手に行っていたのだ。そのスニーカーの輸出を三菱商事が担当していた。   初めは生産基地は日本で、月星やアサヒや世界長、アキレスなどがアメリカ向けのスニーカーを生産していた。そのうち日本の人件費が高くなり、生産基地を韓国に移した。  韓国の釜山には大きなスニーカーを生産する工場がいくつもあり、宮本さんは釜山に駐在してCITCの生産と輸出の仕事をしていた。   当時の韓国は夜12時を過ぎると戒厳令で外出禁止になったり、まだまだ戦争色が強くあって、山は北のゲリラを防ぐため木を伐採して禿山にしていた。  私も当時韓国へ行った時、釜山からソウルへ行く飛行機に乗ったが、飛行機が飛び立つ前に窓を全部閉めて外の景色を見れないようにしていた。   街も暗く、物乞いが多く居て貧しい国だった。 今の韓流ブームは考えられない。  そんな国に駐在していた宮本さんは大変だったと思う。  しかしアメリカの輸出は大量で、年間何百万足も輸出していて、サンプルだけでもコンテナ10台20台だったらしい。   宮本さんは工場の生産ラインを年間何ラインかを押さえ、飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。   しかし繁栄は長く続かない、アメリカのスニーカーの市場はハウスブランドからアディダス、プーマ、ナイキなどナショナルブランドが主流になって、CITCもクローズしなければならなくなった。   CITCにいたスタッフはアメリカの靴業界に散っていった。私もアメリカのシューショーでもとCITCにいた靴メーカーのトップの何人かに会ったことがある。  その中でポールダニエルと言う人が、カナダのトロントでCITCと同じような会社を三菱商事と組んで展開をはじめる。宮本さんはカナダのトロントに駐在することになった。  やがて任期が終了して日本に帰って来たのだが、日本にはこれと言った仕事がない。新たに仕事を創らなければならない。それで私に相談しに来たのだ。  私はアメリカに行きたい一心で「アメリカのブランドを取って日本で展開しましょう」と提案した。宮本さんもカナダ、アメリカに何度も行っているのでアメリカの事情が理解できる。その方向で行こうとなった。      アメリカを代表するブランドと言えばリーバイスだ。 リーバイスのブランドを付けたアメリカらしいオイルドレザーを使ったワークブーツを造ろうと言う事になり、青山にあったリーバイスジャパンにサンプルを持って、宮本さんと二人で訪ねた。  ライセンスの責任者だった飯山さんがサンプルを見て気に入ってくれた。   飯山さんはカルフォルニア大学バークレー校でMBAを取り、リーバイスに入社した切れ者で、「このリーバイスのブランドは、三菱商事にあげるのではなく長嶋さんにあげる」と言ってくれた。   商品企画は私、長嶋が行い、三菱商事がブランド管理し、月星化成が販売する事になった。    登山靴を生産している安藤製靴と山形の宮城興業に生産をお願いした。   革は安藤製靴が使っているカルフォルニア、サンタクルーズにあったSALZ LEATHER を全商品に使った。   それで以前このブログに書いたが、SALZ LEATHER とのつきあいが始まる。   リーバイスのライセンスとは別にアメリカの靴を輸入して日本で販売しようと考え、アメリカに行くことになった。靴の生産の本場は、ニューイングランドなので、宮本さんの顔が利くトロントのポールダニエルの会社MR D にメーカーのアポイントメントを取ってもらうべく、トロントに行く事にした。   私の旅費の予算がないので、宮本さんの出張予算でまかなえるようディスカウントのエコノミーのフライトで、宿泊も安いモーテルに二人で一部屋でいくことになった。   それでも今までの遊びの旅行と違い、アメリカで仕事が出来る喜びはひとしおだった。   いよいよアメリカにビジネストリップだ。

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宮本さん、サンフランシスコで。遠くにゴールデンゲートブリッジが見える公園で。

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宮本さんと私。何処か忘れたが、西海岸の海辺で。

松本さんとの西海岸の旅 3

ワトソンヴィルのアンティーク村からスタインベックの故郷サリナスに向かう。途中見渡す限りのレタス畑の中を、映画「エデンの東」のテーマをハミングしながら、ジェームスディーンになりきって車を走らせる。サリナスは小さな街でダウンタウンは一本道の両側に幾つかの店があるだけだ。  スタインベックの生家は黄色のペンキに塗られた大きな家で、レストランになっているが、営業時間が短く、残念ながら此処でのランチは摂れなかった。  モンタレーを散策してカーメルまで72マイルドライヴの美しい海の景色を見ながらドライヴする。   カーメルの街を巡り白砂の海岸を散歩して、再び南に向かう。     走っていると広大な牧場が見えた。牛の群れと馬に乗ったカウボーイの姿が見える。思わず車を止め、土手を駆け上がって写真を撮る。    1号線は太平洋の断崖の上を曲がりくねって走る。右手は夕暮れの太平洋だ。  見事な景色だ。    日が落ちて真っ暗になった頃、懐かしいビッグサーのロッジにたどり着く。   あくる日ビッグサーのプールで日向ぼっこをしていると、後ろの藪のでガサゴソ音がする。近づいてみると、何処から迷い込んだのか牛がいる。   あっ!と思った。  初めてビッグサーに来たMADE IN USA CATALOGツアーの夜、得体の知れない怪物に襲われた事があった。(この事は以前ブログに書いたので見てください)。大きさといい、姿かたちといい、こいつだと思った。同一の牛ではないと思うが、あの怪物は牛だったのだ。たぶん近くの牧場から逃げ出して来たのだろう。やっと謎が解けた。    ビッグサーに別れを告げ、サンタバーバラに向かう。  サンタバーバラはスペインの風情を残した美しい町で、しゃれたモーテルが幾つもある。モーテルに泊まって、翌朝海に突き出たピアにあるレストランで朝食を摂る。メニューにクラブミートオムレツというのがあった。 美味そうだ。 頼んで来たオムレツは期待どうりで、オムライスのライスの部分が全部カニの肉なのだ。思わずニンマリする。隣の席のおじさんが、「グッドチョイス」と親指を立てて言った。  「う、うめー」。  それから何度がアメリカに来るたび、クラブミートオムレツを頼んだ。   いよいよ旅は最終目的地LAだ。  LAは何泊かして、いろんな所を見て歩いた。 以前アドラーさんに連れて行ってもらった、ニューポートビーチが良かったので行く事にした。  立派な家が海沿いにあって、家の前の海には桟橋があり、ヨットが係留されている。  お金持ちが多く住む街だ。  近くにファッションアイランドというショッピングセンターがあり、お金持ち相手のしゃれた店が多く入っている。   日曜日の朝、朝食を摂りにショッピングセンターに行った。  一軒のレストランがブランチブッフェをやっていた。 「松本さん此処にしようよ」と言って入ろうとすると、松本さんがびびっている。店構えが立派なのだ。なにしろ食事はいつも安いものしか食べてない。  「大丈夫だよ」と言って中に入ると、いきなり「シャンパンいかがですか?」と云われた。 周りを見渡すと、いかにもお金持ちーという人たちが優雅に食事をしている。 「や、やべー、」とんでもない所に来ちゃたよー。松本さんを見ると呆然としている。席に案内されて、コーヒーか紅茶かを聞かれてコーヒーを頼む。  料理が並べてあるテーブルには豪華な料理やデザートが並んでいる。「松本さん、こうなったら食えるだけ食って、パンやチョコレートがあるからポケット入れて持って帰ろう」とせこい事を考えた。   今考えると中国のホテルの朝食ブッフェと同じ位だと思うが、当時の我々は本当に豪華に見えたのだ。その証拠に料金は一人15ドルぐらいだったと思う。   そんな貧乏旅行だったが、その後のアメリカ旅行、海外旅行は仕事、仕事がらみだったので、自由に車で走り回ったのは、これが最後だった。

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牧場、牛の群れや、カウボーイが居てウエスタンの世界があった。

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広大な牧場がある1号線。

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牧場にあった風車。私の会社のトレードマークだ。

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1号線の断崖の上の道で私。

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1号線から見た太平洋の夕暮れ。

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太平洋に沈む夕日。

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ビッグサーに居た、迷い牛。以前夜襲われた怪物の正体。

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ニューポートビーチの邸宅をうろつく私。

松本さんとの西海岸の旅 2

サンフランシスコではダウンタウン、フィッシャーマンズワーフ、ツインピークス、など車で巡り、南に向かう。スタンフォード大学があるパルアルトに寄って、さらに南に車を走らせる。サンタクルーズに泊まる予定だ。   サンタクルーズに着いたのだがダウンタウンへ行く道が分からない。車を止めて地図を見ていると、車を止めた前の家から我々を不審に思ったのかおじさんが出てきた。「ダウンタウンにいきたいんだけど」とおじさんに聞くと、「フォローミー」と言って家の前にあった自分の車に乗り込んだ。おじさんの車の後を付いて行くと暫くしてダウンタウンに着いた。わざわざ我々を連れて来てくれたのだ。おじさんありがとう。  モーテルにチェックインして道を挟んだ向かいのダイナーに入って夕食を摂る。翌朝ダウンタウンを歩く。石畳の並木道にアンティークショップやカフェや洋服屋など小さな綺麗な街だ。クーパーハウスと言う古い立派な建物があり、これがサンタクルーズのランドマークらしい。   前にこのブログで書いたが、1989年10月17日午後5時4分に起きた地震でこの綺麗な街が跡形もなく、なくなってしまうとは。その時はカルフォルニアの太陽を浴びて、のんびり散策を楽しんだ。   カルフォルニア大学サンタクルーズ校があるので行って見る。 大学は山の中にあり、校舎は山のあちこちにあり、学生はハイキングコースの様な山道を歩いてそれぞれの校舎の教室に行くのだ。  学食はホールアースレストランと言ういかにもナチュラルな食堂だ。私はブックストアーで霜降りのスエットシャツにサンタクルーズのロゴがプリントされたのをゲットした。ついこの間まで愛用していたがボロボロになって処分したが。  さらに我々は南に向かう。  一号線をジョンスタインベックの故郷サリナスを目指す。  途中一号線が工事中で迂回の標識が出ていた。矢印に従って迂回すると大きな原っぱに出た。ぼろい大きな倉庫の様な建物が点々とある。それぞれの看板にアンティークと書いてある。アンティーク村だ。  私も松本さんもアンティークが大好きなので、迷わず車を駐車場に止める。  古いライフやエスクァイアー、イブニングポストが山積みになっている本屋に入り、埃だらけの本を漁る。  古道具屋で見つけたブリキで出来た風車を見つけた時は興奮した。

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サンタクルーズ、ダウンタウンのカフェでの私。

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カルフォルニア大学サンタクルーズ校の山の中で.

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ワトソンヴィルのアンティーク村で見つけた風車の置物。

松本さんと西海岸の旅 1

1985年9月26日松本さんとLAに旅立つ。松本さんは革の鞄や革小物を作る職人で、アウトドアーが大好きでいつもアメリカの兵隊が乗るようなジープに乗っていた。   松本さんと出会ったのは西新宿にあった私たちの事務所だった。西新宿の事務所を借りる前、私は神楽坂のワンルームマンションを事務所にしていた。  そこに弟子を二人連れた小野さんが「当分の間居候させて」と押しかけてきた。小野さんはインテリアデザイナーで、チヨダの関西の店の内装デザインをしていて、大阪に事務所があり、私はちょくちょくアシックスに行った時など泊めて貰っていた。  MADE IN  USA CATALOG のツアーやその後のオレゴンツアーにも一緒に行った仲間である。  小さなワンルームマンションは四人には狭すぎるので、西新宿のマンションに移ったのだ。  そこで小野さん達は、聖蹟桜ヶ丘のショッピングセンターのテナントの内装デザインを任され、そのテナントの一軒として松本さんが出店する事になり、内装デザインの打ち合わせに私たちの事務所に来たのが初めての出会いだった。 聖跡桜ヶ丘のショッピングセンターに私も靴の店TRADINGPOSTを出店した。  私が企画スッタフをしているアシックスのペダラを売るための店として出したのである。  同じ革を使う事で松本さんと話が合い、一緒にキャンプに行ったり、クロスカントリィースキーをしたりした。私がアメリカに行った話をすると、一度もアメリカに行った事のない松本さんは、是非私と一緒にアメリカに行きたいと言ったので、アメリカ西海岸行きを計画したのだ。   LAの空港でレンタカーを借り、サンフランシスコを目指した。  ハイウェイ5号線で一気にサンフランシスコに行く事にした。   走っているうちに「腹がへったなー」となり、ベイカーズフィルドの街に行く事にした。  貧乏旅行なので当然ファストフードである。  牛肉とたまねぎをソースで炒め、大きなホットドッグのパンに挟んだのを食べた。これがうまかった。  5号線に戻りたかったのだが道が分からない。適当に走っていると巨大な畑の中の道に出た。すると前方から小型飛行機が低空で飛んできて、我々の車のほうに向かってきた。なにか液体を飛行機から撒いている。その瞬間フロントガラスがブッワと曇った。液体が車にかかったのだ。たぶん農薬を散布してたのだろう。  さらに畑に中のカントリィーロードを走っていると、私の会社のマークになっている風車のある農家があった。車をおりて写真を撮ろうとしたら、凶暴な犬が吼えながら農家から飛び出してきた。あわてて車に逃げ込み走り去った。「怖いよー、だから犬はイヤなんだよー」と思った。そんな私がその後、犬を飼い、犬好きになるとは思っても見なかった。   フレズノの近くで5号線に戻り、サンフランシスコを目指した。  途中ハイウェイの両側の丘に無数の発電用風車が立っていて、走っても走っても、無数の風車の林だ。  「すげなー」と感心しながら走っていると、標識が出てきて、サンフランシスコ、バークレーと別れるようだ。  「松本さんバークレーに行こうよ、いいよバークレーは」と言ってバークレーに向かった。MADE IN USA CATALOGツアーの時に来て以来だ。映画卒業でダスティンホフマン演じるベンジャミンがキャサリンロスのエレーンを追って来たカルフォルニア大学バークレー校がある街だ。    バークレー大学のブックストアーでTシャツを買い、街を散策してサンフランシスコに向かう。ベイブリッジを渡ればすぐそこだ。   ユニオンストリートの近くのプランテーションインと言うモーテルにチェックインした。その後このモーテルにたびたび泊まる事になる。

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松本さんと私。1号線ビッグサーの近くの海岸線で。

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風車のある農家の前で私。こんな所で写真を撮るのは不審者だよ.

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サンフランシスコでよくお世話になったモーテル。

ももちゃんとのニューヨーク 3

 

ある晩、ジャズを聴きに行こうとヴィレッジヴァンガードに駐在の岡田君とももちゃんと私の三人で出かけた。本場のジャズは演奏もさることながら、雰囲気も最高だった。深夜二時ごろ帰ることにした。何日か前、ミルフォードプラザをチェックアウトしてニュージャージーの岡田君のアパートに泊めて貰っていた。地下鉄でポートオーソリティーバスターミナルまで行って、バスでニュージャージーのアパートまで帰るのだが、悪名高い深夜の地下鉄もスリルがあったが、ポートオーソリティーバスターミナルに着いた時、我慢していたトイレが切羽詰っていた。   トイレに一人で入ったら、ホームレスの様な人たちがたむろしていて、いっせいに私のほうを見る。手を洗う水道はお湯が出るので裸になって体を洗っている人もいる。やめて帰ろうと思ったが膀胱のキャパはもう一杯で、我慢できそうもない。思い切って放出した。ずっと我慢していたので、早く終わりたいのだが、どんどん出てくる。  じっと見られているのが分かる。早く終われ、早く終われと願う。 やっと終わったので手を洗おうと洗面台に行くと、明らかに皆私を見ている。わざとゆっくりと手を洗ってハンカチで拭きながらあたりを見ると、全員人相が半端なく悪い。慌てて逃げるようにトイレから出た。  いろいろと海外に行ったが、この時が一番怖かった。   しかしその時の私は20ドルで買ったユーズドのスタジャンにジーパンで同じホームレスだと思われていたに違いない。      東京に帰る前の日、ももちゃんは岡田君と、岡田君の会社の社長と仕事があり、夜も会食で遅くなると言う事で私はその日一日一人で過ごすことになった。又ミルフォードプラザに再びチェックインしていて、ホテルの部屋でももちゃんに、ドルがもうほとんどないので貸してくれと言うと、「俺も現金がないので、トラベラーズチェックをあげるので使ってよ」とチェックを渡してくれた。  現金にしようとフロントに頼むとIDを見せろと言う。サインはももちゃんがしていたのだが、IDで本人の確認すると言う。すでにももちゃんは出かけてしまった。「まいったなー」と思ったが何とかなるだろう。  一人でマンハッタンを歩き回る、冬のニューヨークは夜になるのが早い。暗くなると街中のクリスマスイルミネーションが見事だ。  寒くなって、空から白いものが降ってきた。雪だ。腹がへって寒さが身にしみる。街角に焼き栗屋が出ていて暖かそうだ。思わず近寄って見ていると、美味そうだ。なけなしのドルで買ってしまった。スッカラカンだ。夜飯どうしよう?カードで払おうと思うが、カードの使える店はちゃんとしたレストランだ、そんなレストランに独りで入るのは勇気がいる。日本でも独りでちゃんとしたレストランに入ったことはない。でも腹は減る。食わないわけに行かない。  思い切って一軒のレストランに入る。「ハウメニーパーソン」「アローン」と人差し指を一本立てて答えた。大きなガラス窓のそばの席に案内された。ステーキとサラダと飲み物を注文して窓の外を見ると雪がさっきよりも勢いを増して降っていた。「ニューヨークだなー」と、しみじみ思った。  レストランからホテルに帰る途中、スケート場がある大きなクリスマスツリーで有名なロックフェラーセンターに寄った。天使の形のオブジェに豆電球が飾られ、スケート場の後ろには巨大なクリスマスツリーがそびえている。寒さを忘れて思わず見とれてしまった。   ホテルに戻ると間もなくももちゃんが帰ってきた。さっき見たロックフェラーセンターの感動をももちゃんに伝え、是非ももちゃんも見ておくべきだと力説した。「だけど俺足が痛いし、夜も遅いし、やめとくよー」と言って乗って来ない。「でもせっかくニューヨークに来て、あれを見ないで帰るのは一生後悔するぜ」と言うと「分かったよ、行くよ」と言って、まめが出来た足を引きずってロックフェラーセンターに向かった。雪は道路に薄く積もって、あたりを白く染めていた。ロックフェラーセンターを見たももちゃんは足の痛みを我慢して歩いてきた甲斐があったと喜んでいた。クリスマスシーズンのニューヨークは本当に素晴らしい。この後もう一度クリスマスのニューヨークに行ったことがあるが、この初めてのクリスマスシーズンのニューヨークは思い出深い。

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ビルにリボンをかけたクリスマスデコレーション。

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街中がクリスマスのイルミネーションで一杯だ。

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ロックフェラーセンターのスケート場。

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雪の中の天使のオブジェ。ロックフェラーセンター。

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ロックフェラーセンターのクリスマスツリー。